船橋大神宮には、裏門から入りました。
船橋大神宮は、戊辰戦争で幕府軍が立てこもり、戦火で焼かれた歴史があります。その歴史に想いを馳せようとしたのですが、どうもそんな風情は感じられませんでした。
社務殿にいく途中に、石碑が立っていますが、どうもこの危険防止の立て札が気になります。

石碑や灯篭など、どれにも「触るな」「登るな」「近づくな」と札が貼られてます。
何か事故でもあったのでしょうか、あるいは壊す輩がいたのかもしれませんが、どうも興ざめします。
船橋の歴史の中心とも言える船橋大神宮も、現代人のモラルの低下に効し切れない風情にも見えます。

ご神殿では、何かお払いの儀式の最中でした。
我が家の下の息子も、ここでお宮参りをしたことを思い起こします。もう、11年前のことです。
境内から本町通りを望みます。
下から見上げると、こんな感じです。
船橋大神宮から、10分位歩いた民家の軒先に、太宰治の居住跡という石碑があります。
太宰は船橋に三年位住んでいたそうで、そんなゆかりの旧跡がいくつかあります。
本町通りにかかる海老川橋です。
この海老川橋には、船橋という地名の由来が書かれた石碑があります。
その昔、伝説の高貴な英雄が下総の地に赴く際に、その頃、橋のなかった海老川を渡る時、この地の住民が舟を並べて川を渡る手助けをしたことから船橋という地名が根付いたと言うようなことが書かれています。
船橋の郷土資料館に展示されている江戸時代初期の古文書にも、すでに「舟橋」という地名があるので、相当昔のことと言えるでしょう。
海老川橋のひとつ南にある八千代橋から、川下を見ています。
やはり海に近いので、漁業にちなんだ魚のモニュメントです。
八千代橋から本町に入ったところに、こんな地蔵尊があります。
なんでも、受験シーズンには、合格祈願の受験生が詰め掛けるとか。
この本町界隈には、こんなお風呂屋さんの煙突が何本か今でもあります。
一応、営業しているようでした。
その昔、漁業権の争いで命を落とした漁民を供養した飯盛地蔵の大仏です。
今でも、当時を偲んだ供養が毎年、行われていて、牢屋で餓死した漁民を悼んで、大仏の身体一杯に白米を擦り付けることから、この名がつけられているそうです。
市民文化ホールの前に、太宰治が居宅で育てていたと言う夾竹桃が、ここに植え替えられて石碑が建てられています。
この夾竹桃のことが小説にも、出てくるらしいのですが、一度、調べてみたいと思います。
市民文化センターの前から、船橋駅方向を望みます。
老舗の和菓子屋さん「ひろせ直船堂」の旧店舗です。
こんな店構えは、もうほとんど見掛けませんね。
両側がビルで窮屈そうです。
太宰治が好んだと言う御蔵稲荷神社です。
初版の小説の表紙絵にも、この神社の絵が使われたそうです。
稲荷神社の側に、船橋御殿跡があるらしいのですが、残念ながら、見つかりませんでした。
歩き疲れて、お腹も空いたので、御殿通りの路地にあるラーメン屋「美松」で、船橋名物と銘打った「ばか麺ラーメン」(\700)を食べました。
スープは、鶏がらの普通の味ですが、チャーシュー、芝海老、煮たまご、アサリと具沢山で、まずまずです。
御殿通りがある船橋南口は、再開発の真っ最中で京成線の高架化で便利になることが期待されてます。町並みも、一新されることでしょう。
いづれ、またその折に、レポートしたいと思います。
ホームから、南口を望み、右に見えるのは、西武百貨店です。
これでおしまいです。    戻る